【EP. 6】”生ける伝説”ブルーノ・サンマルチノの栄光、そして長期政権終幕へ。

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本シリーズでは、50年以上の歴史を誇るWWEが如何に現在のグローバル企業に成長していったのか、その歴史に迫る。
※第1話からご覧になられる方は下記リンクからどうぞ。
【EP. 1】キャピタル・レスリング・コーポレーション設立。

第6話

「世界中で何が起きているか気づいていなかったんだ。」ブルーノ・サンマルチノはこう語る。「初めて日本へ旅した時、飛行機を降りるとそこには150~200もの報道陣が詰めかけていた。至る所でフラッシュが焚かれ、目がくらむようだった。”なんてことだ、誰が飛行機に乗っていたんだ?誰を見逃したんだ?”と思ったよ。原因は私だなんて想像もつかなかった。」

彼の名声と共に収入も増加。1965年、米スポーツ誌『スポーツ・イラステレイテッド』の発表した記事では、元メジャーリーガーのミッキー・マントルと並び、”最も稼ぐスポーツ選手”の一人に数えられた。年収は1年で約12万5000ドル。その1年後には20万ドルまで跳ね上がった。その稼いだお金で、彼は6000ドルのキャデラックや4000ドルのステレオ、その他贅沢品を購入したのだった。

新団体の成功を喜んだのは彼だけではない。WWWFもまた、大幅な利益を得たのである。人気と需要が高まったことで、他のスポーツやエンターテイメントと比べると、高額の値段を提示できたのだ。例を挙げると、1969年にボストンのフェンウェイ・パークで開催された興行のチケット代金は、1枚あたり10ドル。この興行は、サンマルチノ対キラー・コワルスキーを目玉としていた。対して、1967年に同会場で開催されたMLBワールド・シリーズのチケット代金は、8ドルだった。

彼らの人気と重要性を認識し、1968年にマディソン・スクエア・ガーデンは、営業を再開してから初のリング興行に、WWWFを迎えた。メインイベントでは、ブルーノ・サンマルチノが体重約147キロの巨体を誇る”アパッチ” ブル・ラモスと対戦。サンマルチノは、自身55回目のMSGメインイベントを勝利で飾った。

しかし、時代は終息する。世は冷戦真っ只中。1971年1月18日、マディソン・スクエア・ガーデンにて、サンマルチノは”ロシアの怪豪”イワン・コロフとの王座戦に臨んだ。満員の観客で埋め尽くされた会場。その目の前で、サンマルチノはトップロープからのニー・ドロップを受け、ピンフォール負けを喫した。7年8ヶ月と1日。サンマルチノ政権は終幕を迎えたのだった。

「アーノルド・スコーランが、試合後に助け上げてくれたんだ。」サンマルチノはこう振り返る。「ザ・ガーデン(MSG)が静寂に包まれた。そして控え室へ戻ろうと歩いていると、すすり泣く声が聞こえたんだ。”ブルーノ、俺たちは、まだ君を愛しているよ。君は、今でも史上最高の男だよ。”と。とても深く感動したよ。控え室へ戻ると、目には涙が溢れた。気が咎めたよ。彼らを失望させてしまったと感じた。なぜ彼らは私に対して、あのような愛情を抱いたのか理解できなかったんだ。」

To be continued.