【EP. 6】”生ける伝説”ブルーノ・サンマルチノの栄光、そして長期政権終幕へ。

1398

本シリーズでは、50年以上の歴史を誇るWWEが如何に現在のグローバル企業に成長していったのか、その歴史に迫る。
※第1話からご覧になられる方は下記リンクからどうぞ。
【EP. 1】キャピタル・レスリング・コーポレーション設立。

第6話

「世界中で何が起きているかを気づいてなかったんだ」ブルーノ・サンマルチノはこう語る。「初めて日本へ旅した時、飛行機を降りるとそこには150~200もの報道陣が詰めかけていた。いたるところででフラッシュが焚かれ、目がくらむようだった。『なんてことだ、誰が飛行機に乗っていたんだ?誰を見逃したんだ?』と思ったよ。原因は私だなんて想像もつかなかった」

サンマルチノの名声と共に収入も増加。米スポーツ誌『スポーツ・イラステレイテッド』が1965年に発表した記事では、元メジャーリーガーのミッキー・マントルと並び、「最も稼ぐスポーツ選手」の一人に数えられた。年収は1年で約12万5000ドル。その1年後には20万ドルまで跳ね上がった。彼はその稼いだお金で6000ドルのキャデラック、4000ドルのステレオ、その他贅沢品を購入した。

新団体の成功を喜んだのは彼だけではない。WWWFも同じく大幅な利益を得たのである。人気と需要が高まったことで、他のスポーツやエンターテイメントと比べると、高額の値段を提示できたのだ。例を挙げると、1969年にボストンのフェンウェイ・パークで開催された興行のチケット代金は1枚あたり10ドル。この興行はサンマルチノ対キラー・コワルスキーを目玉としていた。そのいっぽう、1967年に同会場で開催されたMLBワールド・シリーズのチケット代金は8ドルだった。

マディソン・スクエア・ガーデンは1968年、彼らの人気と重要性を認識し、営業を再開してから初のリング興行にWWWFを迎えた。メインイベントではブルーノ・サンマルチノが体重約147キロの巨体を誇る”アパッチ” ブル・ラモスと対戦。サンマルチノは自身55回目のMSGメインイベントを勝利で飾った。

しかし、時代は終息する。世は冷戦真っ只中。サンマルチノは1971年1月18日、マディソン・スクエア・ガーデンにて”ロシアの怪豪”イワン・コロフとの王座戦に臨んだ。満員の観客で埋め尽くされた会場。サンマルチノはその目の前でトップロープからのニー・ドロップを受け、ピンフォール負けを喫した。7年8ヶ月と1日。サンマルチノ政権は終幕を迎えたのだった。

「アーノルド・スコーランが試合後に助けあげてくれたんだ」サンマルチノはこう振り返る。「ザ・ガーデン(MSG)が静寂に包まれた。そして控え室へ戻ろうと歩いていると、すすり泣く声が聞こえたんだ。『ブルーノ、俺たちは、まだ君を愛しているよ。君は、今でも史上最高の男だよ。』とね。とても深く感動したよ。控え室へ戻ると目には涙が溢れた。気がとがめたよ。彼らを失望させてしまったと感じた。彼らは私に対して、なぜあのような愛情を抱いたのか理解できなかったんだ」

To be continued.