【EP. 4】NWAレジームからの脱却、そしてWWWF設立へ。

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本シリーズでは、50年以上の歴史を誇るWWEが如何に現在のグローバル企業に成長していったのか、その歴史に迫る。
※第1話からご覧になられる方は下記リンクからどうぞ。
【EP. 1】キャピタル・レスリング・コーポレーション設立。

第4話

バディ・ロジャースを下したルー・テーズの勝利に沸くNWAを余所に、ビンス・マクマホン・シニアはこの試合結果に抗議・物議を醸し出そうと大忙し。なぜなら、1960年代における世界王座戦は3本勝負が通例だったが、ルー・テーズが勝利した試合はシンプルな1本勝負だった。

しかし、実際にはビンス・マクマホン・シニアの同試合に対する抗議は、パフォーマンスに過ぎなかった。この出来事をきっかけに、彼はNWAからの脱却をもくろみ、親団体の規約に縛られることのない、更にNWA世界王者という”シェア王者”に頼らず、彼自身の独立した団体を形成しようとしていた。いわば、NWAという”縛り”からの脱却。ルー・テーズ対バディ・ロジャースの論争につながる年、ビンス・マクマホン・シニアは自身の組織がNWAよりはるかに力強いことを証明し、戦略的に彼の成功による全利益を得ようとしていた。

ビンス・マクマホン・シニアの息子ビンス・マクマホンは、当時のことをこう語る。「父は自らが何を欲しているのか分かっていたんだ。彼が欲したのは世界王者だよ。あの頃のテリトリーシステムを振り返ると、NWAに認定された王者を除き、ほぼ全てのテリトリーが世界王者を抱えていた。父は自分自身が作り上げた世界王者を欲したのだ」

ビンス・マクマホン・シニアは1963年4月、自ら精選した王者”ネイチャー・ボーイ”バディ・ロジャースを従え、現在のWWEであるWWWF(ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション)を設立。テレビ上での強い団体の存在と相まって、”若い”団体にとってスタートアップさせることは、まさに夢物語だった。しかし、不運にもロジャースの健康状態が団体の方向性を一転させる。

バディ・ロジャースは1963年初頭、胸に激しい痛みを抱え始める。だが、彼は病院に駆けつけることよりも、身体的不安を抱えながらリングの上に立ち続けた。後の4月16日、ロジャースの痛みはカナダ・オタワで行われたブルドッグ・ブラワーとの試合で限界に達し、病院に行くことを余儀なくされる。医師からの正式な診断が下されていない間にも、4月23日に加日刊紙「Ottawa Citizen」が彼の病状を心臓発作と報道し、長い間そう言い伝えられている。

ロジャースの健康状態の悪化と共に彼の勢いは衰えをみせ、ビンス・マクマホン・シニアは次なる”団体の顔”を模索し始める。ロジャースの挑戦者として相応しい人物は誰か。しらみつぶしに探し求めた結果行き着いたのはそう、ブルーノ・サンマルチノだった。

第5話は下記リンクからどうぞ。
【EP. 5】1963年5月17日、第2代WWWF世界ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノ誕生。