【EP. 2】 NWA、テレビ、そしてマディソン・スクエア・ガーデン。

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本シリーズでは、50年以上の歴史を誇るWWEが如何に現在のグローバル企業に成長していったのか、その歴史に迫る。
※第1話からご覧になられる方は下記リンクからどうぞ
EP. 1 – キャピタル・レスリング・コーポレーション設立。

第2話

団体設立から体制を整えた直後、キャピタル・レスリングは全国各地に点在する多数の団体から成る運営組織NWAに加盟。NWAは当時、業界で最も権威ある組織として認識され、加盟することによりNWA認定王者を招聘できることが加盟理由である。狙いは”地域王者”からの脱却。これによって、各テリトリーのみを支配する”地域王者”とは異なり、NWA加盟団体であればテリトリーの枠を超え、国中で王座戦を開催することができた。

キャピタル・レスリングの到来と時を同じくして、テレビが全米各地に普及し始めた。大多数のプロモーターがライブ集客に影響が出ることを恐れ、テレビでのプロレス中継に反対したが、ビンス・マクマホン・シニアは違った。

(デュモン・テレビジョン・ネットワーク)

ビンス・マクマホン・シニアは1956年、デュモン・テレビジョン・ネットワークでキャピタル・レスリングを2週間放送すると決断。彼はその間、番組中継に関する全財務責任を負い、リスクは明白だったが、最終的には報われた。そして、3週目にはデュモン・テレビジョン・ネットワークと週350ドルでプロレス番組の放映権に関する2年間契約を締結。これに醸造会社であるガンタービール社がスポンサーに名乗りを上げ、ライブ興行の集客も急増した。

ビンス・マクマホン・シニアはその当時、ワシントン・ポスト紙とタイムズ・ヘラルド紙の取材を受け、ライブ興行の集客が増加した理由をこう答えた。「テレビのおかげだよ。他に何があるのかな?北はペンシルベニア州チェンバーズバーグ、南はヴァージニア州スタントンまで予約の問い合わせが来ているよ」

(マディソン・スクエア・ガーデン)

年月が進むに連れ、テレビ局はサンプルとして、待望のニューヨーク市場まで放映地域の拡大を許可。偶然にも同じ時期、ニューヨークで敏腕プロモーターとして活動していたジョセフ・モンドは、他テリトリーのスーパースターに対して契約不履行があったとし、ニューヨーク州体育委員会から6ヶ月の業務停止命令を受けていた。これをきっかけに、キャピタル・レスリングは19561126日、初めてマジソン・スクエア・ガーデンで興行を打つことが許可された。

“マクマホン・テイスト”の興行を一度味わったマジソン・スクエア・ガーデンの観客は虜になり、ジョセフ・モンドに望みは無くなった。ドクター・ジェリー・グラハム、ジョニー・バレンタイン、ファビュラス・カンガルーズやその他のキャピタル・レスリング・スーパースターズに打ち勝つには分が悪すぎた。

そしてビンス・マクマホン・シニアは1960年までに、このアメリカ北東戦争の最終的な勝者となった。その後、彼はレスリング業界に衝撃を与えるべく、ライバルだったジョセフ・モンドをキャピタル・レスリングに迎え入れる。(これはWCW崩壊後の2002年にビンス・マクマホンが長年のライバルであった元WCW副社長兼プロデューサー、エリック・ビショフを迎え入れた時と似ている)

第3話は下記リンクからどうぞ。
【EP. 3】元祖”ネイチャー・ボーイ”バディ・ロジャース登場。